台灣各地に數多の日本人が祀られている。が、義愛公森川清治郎を以て嚆矢とする。然も官等は最下級の巡査である。元の台南州下では外に、烏山頭に嘉南大の父八田與一、台南市内に鎮安堂飛虎将軍杉浦茂峰海軍飛行兵曹長(昭和19年台湾沖空中戦で戦死した乙種予科練出身)が祀られている。八田與一の廟はなく、記念室と珊瑚潭に面して夫人外代樹女士と合葬の衣冠塚と銅像がある。

  後世の人に愛される人は生前に人を愛した人である。愛に國籍はなく、誠の愛は萬物の逆旅である天地に時空を超えて息づく。

  森川清治郎は、台灣人の生活に身を入れ台灣人の心に愛を點してこそ義愛公と祀られている。森川清治郎は、貧困に喘ぐ善良な村民と植民地で威権を笠に著る上司の板挟みに進退谷まり、最後は、命は義によって軽し、永遠に孤高の人として生きる道を選んだ。自決することによって、ひたむきに生きる人間性は村民の期待に副えぬ如何ともし難き無力感から解放されたのである。同時に、身を殺して民情疾苦を重視する大義を上層に達した死諌でもある。つまる所、両端を持せぬ個性に生まれついた彼の悲哀だが、その哀しさが昇華して、竹帛に名を垂れ、永遠に偲ばれ尊崇される神と成道したのである。森川清治郎の義と愛に感恩し、副瀬の村は貧しかった時代から、終戦後の排日政策を挟んで、八十星霜を閲して今日に至るも、一切の政治色を排し、銅臭もなく、虔誠に自彊息まず歴史の落葉を守り續けてきた。私は台灣人の一人として純朴誠実なこの村を誇りに思っている。森川清治郎と副瀬に纏わるこの故事は琴線に触れ、二つの時代を生きてきた私は、物質の富裕に慣れた現代の人人が忘れ失った人としての矜持と、人生意気に感ずる時代への郷愁をひしと感ずる。3年前にこの故事を知ってから、私は日本から来訪の級友やお客を富安宮に案内している。然して度を重ねる中に、一樹の陰一河の流れも他生の縁で、この村の人とも友達になった。異域の鬼となった森川清治郎も故国からの空谷の跫音を喜んでいるに違いない。去る2000年7月7日、森川清治郎は、義愛公の分霊台北縣新荘北巡聖安宮の有志者に奉ぜられ、一世紀振りに後嗣も生家も已にない横浜へ里帰りした。台灣から日本へ架けたこのよりよき交流の礎になる橋は、横浜の地方新聞に載り一部の心ある人を喚起したが、現代人の肺腑を抉る新聞ではないのか全國に反響はなかった。併し、台灣の信者達は森川清治郎へせめての報恩の念願を達した。領台50年、日本と台灣の歴史的淵源は深く絆は固い。又、地理的には一衣帯水、猶且つ石垣島、宮古島等沖縄諸島を飛び石伝いにして続いている。惟うに、義愛公は日本人の誇りでもある。だが、その事蹟は数少ない小冊子で簡単に紹介されているだけで、知る人は寥寥たるものである。私は、もっと多くの日本人がこの故事に関心を寄せ、訪台の折細やかな郷村副瀬へ枉駕を乞い、生生流転の世に今も台灣人の心の中に生きている氣韻生動の義愛公を拝し、旅の思い出を偲ぶよすがになればと、願っている。今年(2002年)は森川清治郎自盡百周年に当たる。幸いに、3月17日、祖父の代から三代にわたる語り傳えが時の移ろいで忘却される後代への殷鑑に、村の4、50歳世代の有志が「富安宮義愛公聨誼會」を発足させた。蟻の思いも天に届く、この會の誠実な高揚が日本人の交響を呼ぶのを祈って止まない。
ネッテラー ウィリアムヒル ピナクルスポーツ bet365 ブックメーカー