この傳記は、森川清治郎の獨子真一の妻愛が、1973年頃父を偲び、思い出に口述したのと、村の語り傳え及び日本領台時發行の「警察時報」を参照して書いた。自殺の原因には、税金を拂えない貧しい人に替って納めていたが、薄給では續かず自殺したとの巷説もある。森川清治郎の自盡に上層は本丸から火を出した様に、慌てて戒告處分を取り消した。且つ1935年、今川淵台南州知事は警察官の鑑として事蹟を表彰した。この故事は、私が未だ小学生の頃、小学校を巡廻して偉人傳を講演してくれた通稱「コブの爺さん」志村秋翠氏が「明治の呉鳳」のタイトルで書いている。植民地下で沽券に關わる故か、それとも小学生向けなのか、作文で森川清治郎はぺスト患者救助中感染して死んだと粉飾している。森川清治郎もあの世で迷惑したであろう。森川清治郎自殺の後、遺族の妻ちよと獨子真一は鹽水港支廳勤務の同じく警察官であつた廣瀬秀臣氏(退官後玉井、善化で代書を業とした)が引き取って世話をした。ちよは、3年後、台南市永樂町(舊名台南市外中街9番戸)胡徳春方にて亡故した。獨子真一は、廣瀬秀臣氏の妻の故郷の鹿兒島で師範学校を卒業して台湾に戻り、台南州下の公学校(当時の台湾人小学)教師を務め、アイ(愛)と結婚し、終戦後日本へ引き揚げた。真一と愛間に子嗣なく、森川家は絶えた。
  30年程前、訪台する廣瀬秀臣氏の外孫岡勲氏(昭和17年岸内出生)は,「台灣の東石副瀬の廟に父森川清治郎が祀られていたが、今果たして残っているか見て来て欲しい」と、愛に言付けられた。初めて富安宮を訪れた岡氏は、義愛公は時代の變遷にも關らず、村人に信仰されて祀られていたのを目の當りにし、村人の純誠に感激したと述懐している。その後、岡勲氏は毎年舊暦4月8日の義愛公大祭に、必ず身寄りとして参拝に來台している。現在富安宮には御本尊の外に副像が二體ある。一體は森川愛女士、一體は岡勲氏の寄贈による。
  税金については、その後税の賦課査定に謬りのあったことが發見されたのか、區長役場からの注意で部落民全部が申告をし直すようなことがあって、翌年からは従前と同じく年税50銭に軽減されたそうである。

1861年 神奈川縣久良岐郡戸太町字戸部266番地に出生(註参照)
1892年 兜木ちよと結婚
1893年 嫡子森川真一出生
1897年 単身渡台、巡査を拝命
1902年 4月7日自盡、享年42歳
1905年 1月26日、森川ちよ亡故、享年36歳
1923年 舊暦4月8日成道(義愛公と神稱されて神籍に入る)
1957年 森川真一亡故、享年64歳、曽て台南州北門郡七股庄土城子公学校長を歴任
1986年 森川アイ(愛)亡故、享年83歳
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